えのぐ日記

小学校で図画工作専科の教諭をしています。

「思いを込めて表しなさい」

「死んだ子どもの残したものは

 ねじれた足と乾いた涙

 思い出ひとつ残さなかった」

谷川俊太郎『死んだ男の残したものは』より

 

 この詩を「思いをこめて音読しなさい」と教師が言うことについて考える。

 武満徹氏がこの詩に曲をつけており、武満氏は「この曲はメッセージを込めなければならない、と気を張って歌わなくていい」と言っている。

 

 美術教育学会において、教師が、「感情を込めなさい」、「思いを込めて伝えなさい」、そういった言葉を言った瞬間に大切なものが消えていくという問題提起と指摘があった。

 指摘の内容としてはこうである。この詩の「ねじれた足」や「乾いた涙」という言葉自体が持つ「命」を、それぞれの人間が感じ、詠うということ、それ以外にないのではないか。教師が思いを込めて、と言った瞬間にその大切なものが消えてしまうのではないかという指摘である。

 また、他にもこんな指摘があった。「思いを込める」ということを目的にした時点で授業の目標が「言葉」や「意味」「コンセプト」になってしまうのではないか。「コンセプト」の追求に走ることで、制作過程が作業化してしまうのではないか、という指摘である。

 最初は意味が分からなかった。なぜなら、学習指導要領解説には以下のような記述が明記されているからである。

 

小学校図画工作編

「「絵や立体、工作に表す」では、自分の夢や願い、経験や見たこと、伝えたいこと、動くものや飾るものなどの児童が表したいと思うことを基に表現していく。低学年において表したいことは、自分の感じたことや想像したことが中心となるが、中学年から高学年になるにつれて、見たことや伝え合いたいことに広がる。」

「(絵や立体、工作に表す活動を通して育成する「技能」の項目では)発想や構想をしたことを実現するために、材料や用具の特徴を生かして使うとともに、様々な表し方を工夫して表すことを示している。(中略)低学年では、思う存分に手や体全体の感覚などを働かせて、表したいことを基に表し方を工夫して表すことを示している。中学年では、客観性や他者意識の芽生えに配慮し、表したいことに合わせて表し方を工夫して表すことを示している。高学年では、社会的な視野の広がりを踏まえ、表現技法に応じて材料や用具を活用するとともに、表現に適した方法などを組み合わせたり、表したいことに合わせて表し方を工夫したりして表すことを示している。」

 

 注目すべきは「表したいことに合わせて適した方法を工夫し表現する」というような記述である。ここで言う「表したいこと」とは「自分の夢や願い、経験や見たこと、伝えたいこと、動くものや飾るものなど」であり、「思い」「感情」も含まれるが、それ以外の要素も含まれる。こういった「思い」「感情」を含んだ「表したいこと」を材料や用具を活用して工夫し、表現する。それを「思いを込める」と解釈できないことはない。「思いを込める」という言い方であると、基からある「思い」、もしくは授業で考え出した「思い」を、材料や用具を活用して作品に定着させる、というように捉えられがちである。目的があり、それを克服するというような、問題解決型といってもいい表現の方法である。

 

 

中学校美術編

「「絵や彫刻などに表現する活動」とは、自ら生み出した主題を形や色彩などで具体化するために、絵や彫刻をはじめ多様な表現に柔軟に取り組むことができることを意図している。」

「「主題を生み出し」とは、生徒自らが感じ取ったことや考えたこと、目的や条件などを基に「自分は何を表したいのか、何をつくりたいのか、どういう思いで表現しようとしているのか」など、強く表したいことを心の中に思い描くことであり、独創的で個性豊かな発想や構想をする際に基盤になるものである。」

「表現の学習は、生徒一人一人がもつ主題に基づいた表現欲求を大切にしながら、生徒が自ら課題を決め、答えを求めて取り組む喜びを味わえるようにすることが重要である。(中略)一人一人が感じ取ったことや考えたこと、目的や機能などを基に発想や構想し、創造的に表すなど、豊かな学習経験を重ねていく中で、心豊かに表すための表現に関する資質・能力が育成されることになる。」

「表現の学習は、表したいことを基に「知識及び技能」と、「思考力、判断力、表現力等」を相互に働かせながら、問題解決をする学習そのものである。その特質を踏まえ、小学校図画工作科において学習した経験や身に付けた資質・能力を基に、中学生の時期の発達や成長、興味・関心などを踏まえて新たな資質・能力を身に付け、創造的な表現を工夫できるように指導することが大切である。」

 

 中学校美術では、小学校図画工作よりもさらに子どもの目的や意図について強調されたように読み取れる。「生徒自らが生み出した主題を形や色彩などで具体化」「強く表したいことを心の中に思い描く」「課題を決め、答えを求めて取り組む喜び」「表したいことを基に問題解決をする学習」など、「思いを込める」という言い方も違和感なく受け入れられそうな文言が並ぶ。ただ、「主題」や「課題」とはイコール「思い」ではない。もっと様々な意味が含まれている。

 

 ここで「思い」や「感情」について整理したい。指摘のあった「思い」や「感情」とは、「意図」という意味が含まれているように感じられる。例えば「象を描きましょう」という授業で、ここで言う「思い」「感情」とは「象と出会った時の思い出」というよりも、「象に対する自分の気持ちの記号化」を指す。象に対する気持ちなんていうものは、ある子もいれば、ない子もいる。象について何にも考えていない子は、象についての感情について考えるところから始まる。そこで、悩んでいる子に対して教師はこう言う。「象は大きいよね」「鼻がながいよね」「○○さんは象を見たときどう思った?」。子どもは、「大きい」と答えたとする。すると教師は、「じゃあ画用紙に大きく描きましょう」。子どもは素直に大きく象を描く。その大きい象のイメージを形にしている時、子どもの心の中では何が起こっているのか?

 ここで、「象」=「大きい」と意味付けした時点で、イメージが一つの記号に変換され、制作が作業化してしまうという指摘がある。作業とは、何も考えず、感じず、ただひたすらに手を動かしているという状態である。大きく描くという目標に向かって、例えば画用紙いっぱいに描くことだけを考えてしまい、ひたすら画用紙一面にクレパスで色を塗っている。これは、作業になってしまっているのではないか、ということである。

 ここでは、大きいと思ったときの感動や、驚きを表すことを目標とするべきなのであろう。つまり、教師が「大きく描きましょう」といったことに問題があり、子どもから引き出すべきなのはその時の出来事なのである。「大きい」という言葉にした時点で、子どもが「踏まれたらつぶれちゃうかも!」と視覚から想像したこととか、「大きな耳をパタパタしたら風がきた!」と体感したこととか、「うんちもすごく大きくて、めっちゃくさい!」と嗅覚で感じ取ったこととか、「お父さんに肩車されたときの自分の大きさよりも、隣に生えていた木よりも大きかった!」といった客観的視点とか、そういった象に出会った時のいろんな気持ちを思い出をすべて一つの「大きい」という単純な言葉に変換し、その時諸感覚を総合して感じた複雑な「思い」「感情」が消えて行ってしまうということである。つまり、教師が「思いを込めて表そう」ということを言って、コンセプトや意図をあらかじめ決定してしまうことに問題がある。学習指導要領には、「表したいことを基に」「主題を基に」とあるが、それは子どもがそれぞれに持つ思い出や出来事に付随する驚きや感情、言葉に表せないようなことを基に、ということだと捉える。教師が単純な言葉でそういった複雑な思いを集約してしまうことは確かに要注意である。

 

 象の話は極端な例だが、中学校の現場でもこういうことがよくある。例えば指摘があったのは、「「太陽のような存在」というテーマで、イメージを形にして描きなさい」という実践についてである。ここでの目標はまさに「思いを込めて表す」ということだった。まず生徒は「太陽のような存在」について言語化したり、アイディアスケッチなどをして考える。その後その考えた太陽についての「思い」を基に絵で表すという実践である。ここでの問題点は、画面に自分の思いを定着させるということについてである。先ほどの例と同様に、そのコンセプトに縛られることで制作が作業化するということである。

 

 対象物の質や材料の特質などを作者が克服しながら、作品に思いを定着させるという考え方は西洋の伝統的制作観であるが、この授業をそれの批判としても捉えられる。西洋の伝統的制作観を批判した社会学者で、ティム・インゴルドは人と物質が一対一の関係で相互に関わり合いながら制作を進めるのではなく、物質と人が制作をするなかで互いに結びつき、呼応(correspondence)し、制作を進める概念を提唱した。この概念としては、ものが対象化している相互作用(iinteraction)ではなく、あくまで呼応であり、ネットワークというよりもメッシュワーク、つまり感覚と素材が絡み合うというようなイメージの考え方である。この考えに影響を受けながら、コンテンポラリードローイングの領域を模索し拡張する鈴木ヒラク氏がいる。確かに彼のコンテンポラリードローイングは呼応を感じられるし、アドリブというよりもインプロヴィゼーション(improvisation)である。環境に影響を受けながら、というよりも、環境と共に制作を進めるような雰囲気である。

 ここで中学校の実践に戻ると、コンセプトをはっきりと決め、太陽のイメージをはっきりとさせることは相互作用的である。言葉で考えていくことと、制作(もしくは作業)を分けて考えることができる。それはコンセプトを考えるときに制作方法について客観的に模索することができ、制作しているときに言葉は客観的に語りかける。やりながらもちろん考えを変えることもできるし、行き来は自由なので、もとあったコンセプトから変えていくことも可能だが、基本的に常に対象物と自分という二分化がされている考え方である。

 しかしコレスポンデンスとして考えるとそうではなく、言葉ではなく形や色彩で考えることや、身体が勝手に動くなどの応答が自然に、むしろ無意識的に起こるといったイメージである。太陽のイメージを考えるのではなく、太陽を感じながら、その存在を意識しながら制作を進めていくということである。それは一時的なものであり、瞬間瞬間で変わっていくライブペイントのようなものであり、結果的にその人自身とその場所が作品に雰囲気として表れる。このような概念を用いて授業実践を行っていくべきではないのかという指摘である。

 

 

 私の今現在の意見としては、全ての表現を相互作用的に捉えることはできるが、コレスポンデンスとして捉えることはできないのではないか、ということである。私が制作中に呼応していると感じるシチュエーションは、限られている。例えば、ライブペイントや、楽器を演奏しているとき、夢中になって制作をしている時である。いつも思うわけではない。いわゆるハイになっている状態の時、「ああ、自分は呼応していた」と後で思える。ジョン・マクラフリンというギタリストは、すごくいい演奏をしている時、自分がギターを弾いているのではなく、神に弾かされているように感じる、というようなことを言っている。密教では護摩をたくとき、お経を読みながら火を焚き、仏界と一体になっていく。イスラム教では片耳を肩につけた状態で体を回転させる。それによってある境地に辿り着くのだそうだ。それはその儀式がないと一体になったり、境地にたどり着くことはできず、急にできるようになるものではない。時間をかけてだんだんとそこへの扉が開いていく。つまり何が言いたいかというと、呼応するにはある程度の鍛錬が必要なのではないかということである。太陽と呼応するには、太陽とお近づきにならなければならないのである。このような儀式やプレイスタイルを相互作用的に捉えることは可能である。だが、ここで述べた例では制作者もしくは演者自身が呼応を感じているという点が重要である。その点において、教育現場で子どもに呼応を感じさせることは難しそうだ。できる子はいると思うし、それを自然にしている子もいると思う。特に幼児期の子どもは、全身で芸術を感じているように思う。そこには言葉や意図、コンセプトはない。呼応している感覚だけがある。

 

 

 教師は簡単に「思いを込めなさい」と言いがちである。それを言うことで、無意識に子どもは教師の「思い」に引っ張られてしまうように思える。教師の「思い」を強く出すことで子どもの「思い」に上書きして消してしまうことは、美術教育の目的とするところではない。教師は無になって子どもを見つめるとともに、子どもがそれぞれ感じている複雑な「思い」をそのまま子どもたちの手で表現していく手立てを考えていく必要がある。