えのぐ日記

小学校で図画工作専科の教諭をしています。

なぜ美術教師は教科書を使わないのか

なぜ美術教師は教科書を使わないのか。

私も含め、多くの図工・美術の教師が図工・美術の教科書を使っていない。

私の恩師である図工・美術の先生は誰も使っていなかった。私が小・中学生の時、図工・美術の教科書は家で眺めるためのものだった。小学校でも、中学校でも、教科書は授業で一切使わなかった。

そして私は今、小学校の図工の先生として、全て読んでいる。だが、使っていない。

 

中学校では使われることがある。それは期末テストの時である。

私が中学校で美術教師だった時も、資料集や教科書をテストの範囲にしていた。

なぜかわからないが、美術のテストが毎学期末ある地域だった。これの必要性もよくわからない。美術の知識を教養として頭に入れ込む作業が果たして鑑賞の能力を育むものなのか、はたまた関心意欲態度をチェックするものなのか、疑問である。

新学習指導要領には20年度施行版とは違い、「知識」という文言が含まれた。しかしその「知識」の解釈として、「対象や事象をとらえる造形的な視点について自分の感覚や行為を通して理解する」こととある。注釈として書かれていることは、読み落としがちで、変な解釈をされている場合が多いので(非常に多い。特にベテランの先生に多い。)そのまま以下に載せておこうと思う。

 

「ここで言う「知識」とは、形や色などの名前を覚えるような知識のみを示すのではない。児童一人一人が、自分の感覚や行為を通して理解したものであり、造形的な視点である「形や色など」、「形や色などの感じ」、「形や色などの造形的な特徴」などが、活用できる「知識」として習得されたり、新たな学習の過程を経験することで更新されたりしていくものである。児童が自分の感覚や行為を大切にした学習活動をすることにより、一人一人の理解が深まり、「知識」の習得となる。これは、図画工作科が担っている重要な学びである。」

 

これを読む限りでは、アーティストのすばらしさを教師が解説したり、色の名前を覚えるためにテストをするようなことは「知識」の重要性として書かれていない。子どもが自ら経験を通じて習得するものであると捉えられる。その環境を整えることが教師の役割なのではないか。ますます美術のテストの必要性が分からなくなってきた。(中学校で美術のテストが無い地域もあるらしい。無くていいと思う。)

 

では教科書は「知識」を習得するためのものなのか?

そうも言えるが、少しニュアンスが違うと思う。教科書は本当によくできている。見ていると、とても面白い。私が子どものころもよく熱心に眺めていた。その時も、今も、読んでいて面白いと思えるのは、社会や理科の資料集を読む時とは少し違ったように思える。図工や美術の教科書には、社会や理科的な事実と、その中にある不思議や、思い、考え、やってみたらどうなるんだろう、と考えさせる発問が書かれている。(社会や理科もそうだが、図工・美術はより抽象的で視覚的比較ができる。)面白いと思えるのはそこではないか。知識だけで終わるのではなく、行為の先にあるものとしての知識が載せてあるように思える。

 

他の教科の先生からしたら、教科書を使わないということは信じられないそうだ。よく聞かれる。カリキュラムってどうやって決めてるんですか?とか、自分の苦手な分野とかやってなかったりしないんですか?とか疑いの目を向けられている。その気持ちはよくわかる。地域の先生方と話をしていて衝撃だったのは、3年生で小刀を使う題材が図工の教科書に書かれているが、ほとんどの学校で小刀を使わせたことがないという事実だ。担任の先生からしたら、教科書に載ってるのにしなくていいの?という疑問が上がってもおかしくない。

 

無理な学校もある。刃物を使う状況ではない学校も多い。そういった学校で、刃物を使った授業をするのには勇気がいる。その他には、例えば私が前いた学校では陶芸用の窯が無かった。というか地域のほとんどの学校に窯が無かった。そのため陶芸の授業をしていないところが多かった。設備がもともと無いから無理、という他の教科からは何とも信じがたい事実である。ただ、図工美術の設備が完全に網羅されている学校など本当にあるのだろうか。美術という幅広い領域の中で、いや、領域なんてあるようでないような教科で、、、

多くの場合、そういった物理的に無理な場合は、同じ分野で違うことをする。例えば陶芸は「工芸」分野に含まれるので、「工芸」の様々な題材から選んでカリキュラムを組み立てる。または、陶芸で使う粘土という素材を使うなどである。いわゆる妥協案である。目標が全然変わってくる。

教科書に載っている陶芸の題材だけでなく、ほかのいろいろなことを試す授業をする先生もたくさんいる。例えば焼成の時にビー玉を入れて器の中で溶かす、などである。

美術という大きな領域の中で、題材を考えるにあたって、ある程度の指標になるのが教科書だが、その指標に沿っていれば、目標を大きく外れなければ、いい授業をすることが可能だと思う。

 

そして、教科書を使わない一番の理由は、図工・美術という教科が、「こうしたらこうなる」、ということを一方的に教えないからこそ、使わないほうが子どもの発想が広がると思っているからである。こんなこともできるよ、という参考として教科書を使うことはあるかもしれないが、こうしたらこうなる、ということを言われてからするよりも、いろいろ試してからするほうが習得しやすいのである。先ほどの「知識」の話と同じである。

さらに言うと、こうしたらこうなる、と言ってしまうと、ほとんどの素直な子どもたちは、そうなるようにしか、しないのである。彫刻刀の丸刀、三角刀、平刀などの使い方は危険なので教えるが、「丸刀を使うとこんな線が彫れますよ~」と最初から言うのと、「どんな線ができるかやってみよう」、と言うのでは子どもの食いつきが全然違う。出来上がる作品も全然違う。そのほうが、丸刀で出来ることをたくさん知ろうとする。

こんな作品を作りましょう、と教科書を見せてしまうと、ほとんどの子どもはそういった作品しか作らない。それは図工・美術の目標とするところではない。

もっと言うと、実は参考作品を私はあまり見せない。参考作品となるものは授業が始まる前に全て作り終えている。授業で子どもがすることは私も必ず前もって作るようにしている。だが、ほとんどの場合それを見せていない。なぜなら、私の作った作品に似た作品がたくさんできるからである。

 

あと、教師側もこうしたらこういう作品ができる、とか、こういう子が育つ、という文言をあてにしていない。いや、あてにしてはいけないと思う。学校によっても、子ども一人一人によっても、全然違うのだから、全国一律で具体的にこれをこうしなさいということは決められないのではないか。扱う教科書によっても大きく題材が違うのである。国が具体的に決めることで、表現の広がらなくなっていく懸念があると思う。

 

図工の授業はスタートを決めてあげる。あとは自分たちで道を作っていく。それがいい授業だ、というようなことはよく言われることだが、その通りだと思う。ゴールが決められている図工の授業は面白くないし、子どもの発想がある程度限定されてくる。

 

私が教科書を使わないのは、そういう理由である。