色は香る、移り変わる
色は匂へど散りぬるを
我が世誰ぞ常ならむ
有為の奥山今日超えて
浅き夢見じ酔いもせず
この「いろは歌」の「色」はサンスクリット語のrupa(ルーパ)に由来し、「全て存在するもの」という意味で、仏教の無常観や色即是空もしくは空即是色を歌い上げている。この「色」はその後に「匂えど散りぬる」と続いていることから、花を連想させる。花を色と比喩的に表現しただけなのかもしれないが、昔の色は、実際に匂っていた、そして散っていき、移り変わっていったものだったのではないかと思う。
国文学者の佐竹昭広氏によると、日本は古代、色を明(メイ)、暗(アン)、顕(ケン)、漠(バク)の4つに分類していた。それぞれ、アカ、クロ、シロ、アヲを指すが、これはどちらかというと光の色であり、人が作り出した色ではない。アカは夜明けとともに空が赤づいていく様子。クロは太陽が沈んでしまった闇の状態。シロは夜が明けてはっきりとあたりが見える様子。アヲは明と暗の中間の状態。自然から放たれる光の明るさを表す時に、この4つを使っていたといわれている。日本神話にもその4色はそれぞれの神々に対応し、アマテラスはアカ、ツクヨミはクロ、スサノオはアヲ、ヤマトタケルはシロ、などで表される。
この4色はすべて形容詞になる。アカシ、クロシ、シロシ、アヲシなどで表現できる。ミドリシ、キシ、などは言わない。そのことからも抽象的な概念としてこの4色が古代から定着していたことがわかる。緑色のことをアヲと言うのは、こういった抽象概念からきていると考える説もある。
しかし言語学者の大野晋によると、クロは泥、涅、アヲは藍に由来しているのではないかという反論もある。つまり顔料から由来しているという説である。確かに顔料や染料をそのまま色名として使っていたという記録もある。例えば、
クレナイ、アカネ 植物
タン 丹(硫化水銀からなる鉱物)
シラニ 白土
などである。
ここでわかることとして、日本には古代、黃の概念は存在しなかった。
古代日本での色は自然信仰や、八百万の神々とのつながりが強く、4原色を基本色彩語とし、他、
現在色を目にするときに顔料のことを考える人はほとんどいないだろう。例えばこの赤は鉱石からか植物からか合成染料からできたのではないか?と考える人はあまりいないはずだ。だが、色を見て、ああこれは朝焼けの赤だとか、これはバラの赤だとか、ワインの赤だとか考える人はいるだろう。自然なことである。
私たちは色の成り立ちについてまったく知らない。なぜそのような名前なのか、なぜその色がチューブから出てくるのか。
どちらかといえば知る必要のないことだと思うが、
いまの子どもたちに色のにおいや移り変わりを、より感じてもらうには、色をつくる経験や色が変わることを見る経験は無駄ではないと思う。
太陽は赤、草は緑、ざっくりした抽象概念ではそうかもしれないが、実際個人個人で感じる色は違う。もしかしたら誰も名前をつけていない色かもしれないし、たまたまどこかの国の象徴のように使われている色かもしれない。
色をつくる経験、絵の具をつくる経験が古代人の色に思いを馳せるいい機会かもしれない。これは押しつけではなく、豊かな心、情操教育ってこういうことではないのかと思う。色の匂い、移り変わりを感じられる図工の授業を考えよう。