えのぐ日記

小学校で図画工作専科の教諭をしています。

型を受け継ぐ芸術、そうでない芸術

型を学ぶことも、美的探求ではないのか? 

アーティストの定義は、「自分だけのものの見方」で世界を見つめ、「自分なりの答え」を生み出し、それによって「新たな問い」を生み出すとされている(「13歳からのアート思考」末永幸歩著)が、職人と呼ばれる人たちがアーティストではないと私は思わない。アーティストは授業を受けている子どもも含め、専門的な技術や知識を持った人だけのものではないと思う。V.ローウェンフェルドは模倣や塗り絵を批判したが、K.バイテルはそれに対し模倣や塗り絵でさえも「美術の因果律」と「個々独自の意味」が失われていないと述べている。まず「美術の因果律」について、バイテルは子どもが強制的に描かされていることにより、美術家(アーティスト)としての力が奪われると述べる。制作する行為そのものが根源的であるということも述べている。また、「個々独自の意味」について、「知られざるものの形態」のための探求として取り扱うことを意味し、美術家(アーティスト)の個々独自の主体性を強調している。バイテルは、この二つが無いところに美術は存在しないと言い切っている。では模倣や塗り絵は美術なのであろうか。模倣や塗り絵で写したり色を塗ったりする行為において個々独自の、自分なりの表現というものをしていないのか。写したり色を塗ることが、主体的な選択や分析、解釈を必要としないのであろうか。私はバイテルの意見に賛同する。模倣や塗り絵においても、写したり色を塗る過程で、子どもは様々な発想やアイディアが生まれている様々な現場を見てきた。 

では、アーティストではなく、職人であるという区別は何なのであろうか?職人は、何も考えずに、人から言われたことを繰り返し、見た目だけが美しいものを作っているのだろうか?私はその区別は無いと思う。書道、茶道、剣道、柔道、華道など、日本の道と名のつくものは、まず型を学ぶ。工芸においても近い。型を学び、それを守り、鍛錬し、自分の技としていく。その過程で、彼ら職人は「美術の因果律」「個々独自の意味」を素材や道具と関わることで感じているに違いない。もちろん最初はわけもわからずただ手を動かしているだけかもしれないが、それが順番や失敗を考えずに行うことができるようになったときに、その行為一つ一つの意味、理由、美しさを知り、そこで自分の技を育て、美という果てしないテーマについてさらに深く考えられるようになるのではないのか。違いがあるとすれば、時間のかけ方の違いだろうか。最初から簡単に扱えるようなものであるか、型を長い時間かけて学ばなければ扱えないものなのかという違いである。鉛筆を使うこととのこぎりを使うことの違いとそこまで変わらないと思う。つまり職人もアーティストなのである。 

では、酒井式などの授業を受けている子どもたちは、どうだろう。アーティストではないのか?酒井式という型を学んでいるうちに、何か発見があったり、気付くことがあるのであれば、アーティストであろう。だが、作品を完成させる、子どもらしい作品をつくることが目的で、わけもわからず手を動かしているだけなのであれば、それはアーティストではない。模倣や塗り絵をするときも、そばにいる人に指図されるままに手を動かしているだけなのであれば、それはアーティストとは言えない。つまり、その子が、その子自身が、自分の意志で手を動かしているということが何よりも美的探求には必要なのである。