えのぐ日記

小学校で図画工作専科の教諭をしています。

型を受け継ぐ芸術、そうでない芸術

型を学ぶことも、美的探求ではないのか? 

アーティストの定義は、「自分だけのものの見方」で世界を見つめ、「自分なりの答え」を生み出し、それによって「新たな問い」を生み出すとされている(「13歳からのアート思考」末永幸歩著)が、職人と呼ばれる人たちがアーティストではないと私は思わない。アーティストは授業を受けている子どもも含め、専門的な技術や知識を持った人だけのものではないと思う。V.ローウェンフェルドは模倣や塗り絵を批判したが、K.バイテルはそれに対し模倣や塗り絵でさえも「美術の因果律」と「個々独自の意味」が失われていないと述べている。まず「美術の因果律」について、バイテルは子どもが強制的に描かされていることにより、美術家(アーティスト)としての力が奪われると述べる。制作する行為そのものが根源的であるということも述べている。また、「個々独自の意味」について、「知られざるものの形態」のための探求として取り扱うことを意味し、美術家(アーティスト)の個々独自の主体性を強調している。バイテルは、この二つが無いところに美術は存在しないと言い切っている。では模倣や塗り絵は美術なのであろうか。模倣や塗り絵で写したり色を塗ったりする行為において個々独自の、自分なりの表現というものをしていないのか。写したり色を塗ることが、主体的な選択や分析、解釈を必要としないのであろうか。私はバイテルの意見に賛同する。模倣や塗り絵においても、写したり色を塗る過程で、子どもは様々な発想やアイディアが生まれている様々な現場を見てきた。 

では、アーティストではなく、職人であるという区別は何なのであろうか?職人は、何も考えずに、人から言われたことを繰り返し、見た目だけが美しいものを作っているのだろうか?私はその区別は無いと思う。書道、茶道、剣道、柔道、華道など、日本の道と名のつくものは、まず型を学ぶ。工芸においても近い。型を学び、それを守り、鍛錬し、自分の技としていく。その過程で、彼ら職人は「美術の因果律」「個々独自の意味」を素材や道具と関わることで感じているに違いない。もちろん最初はわけもわからずただ手を動かしているだけかもしれないが、それが順番や失敗を考えずに行うことができるようになったときに、その行為一つ一つの意味、理由、美しさを知り、そこで自分の技を育て、美という果てしないテーマについてさらに深く考えられるようになるのではないのか。違いがあるとすれば、時間のかけ方の違いだろうか。最初から簡単に扱えるようなものであるか、型を長い時間かけて学ばなければ扱えないものなのかという違いである。鉛筆を使うこととのこぎりを使うことの違いとそこまで変わらないと思う。つまり職人もアーティストなのである。 

では、酒井式などの授業を受けている子どもたちは、どうだろう。アーティストではないのか?酒井式という型を学んでいるうちに、何か発見があったり、気付くことがあるのであれば、アーティストであろう。だが、作品を完成させる、子どもらしい作品をつくることが目的で、わけもわからず手を動かしているだけなのであれば、それはアーティストではない。模倣や塗り絵をするときも、そばにいる人に指図されるままに手を動かしているだけなのであれば、それはアーティストとは言えない。つまり、その子が、その子自身が、自分の意志で手を動かしているということが何よりも美的探求には必要なのである。 

色は香る、移り変わる

色は匂へど散りぬるを

我が世誰ぞ常ならむ

有為の奥山今日超えて

浅き夢見じ酔いもせず

 

この「いろは歌」の「色」はサンスクリット語のrupa(ルーパ)に由来し、「全て存在するもの」という意味で、仏教の無常観や色即是空もしくは空即是色を歌い上げている。この「色」はその後に「匂えど散りぬる」と続いていることから、花を連想させる。花を色と比喩的に表現しただけなのかもしれないが、昔の色は、実際に匂っていた、そして散っていき、移り変わっていったものだったのではないかと思う。

 

ところで絵の具メーカーでは、絵の具の名前を顔料の名前を付けて表示している。
例えばジンクホワイトは、ジンク(酸化亜鉛)を使用してできたホワイト(白)である。チタニウムホワイトはチタンが顔料である。カドミウムレッドはカドミウムが顔料である。現在例えばカドミウムレッドをにおっても、カドミウムのにおいはあまりしないだろう。(というかカドミウムのにおいを知らない。もしかしたらかいでいるかもしれないが、あまりいいにおいではない。と思う。)なぜなら安全に配慮した合成顔料だからである。
かと思えば、マリンブルーやスカイブルーなど、色から連想する言葉を色名にしたものや、ウルトラマリンなど仰々しい名前もある。このウルトラマリンはラピスラズリという鉱石のことなので顔料の色名であるが、色の名前はどうやら顔料由来ではないものも多い。
例えば三原色であるマゼンタは、第二次イタリア独立戦争においてイタリアのマジェンタ近郊でオーストリアに勝利したことを記念にその名前が付けられている。このマゼンタは化学者によって作られた合成顔料であり、それまではフクシアの花などが顔料として使われていた。
戦争の歴史や宗教、発明によって色の名前は付けられ、増えるのである。産業革命で人工色材の広がりにより、同じような色でも名前が増えたのだろう。開発者によるその土地(ベロ藍=通称ベルリンブルー=プロヴァンスブルー)や時代を象徴する名前などもある。

 

国文学者の佐竹昭広氏によると、日本は古代、色を明(メイ)、暗(アン)、顕(ケン)、漠(バク)の4つに分類していた。それぞれ、アカ、クロ、シロ、アヲを指すが、これはどちらかというと光の色であり、人が作り出した色ではない。アカは夜明けとともに空が赤づいていく様子。クロは太陽が沈んでしまった闇の状態。シロは夜が明けてはっきりとあたりが見える様子。アヲは明と暗の中間の状態。自然から放たれる光の明るさを表す時に、この4つを使っていたといわれている。日本神話にもその4色はそれぞれの神々に対応し、アマテラスはアカ、ツクヨミはクロ、スサノオはアヲ、ヤマトタケルはシロ、などで表される。

この4色はすべて形容詞になる。アカシ、クロシ、シロシ、アヲシなどで表現できる。ミドリシ、キシ、などは言わない。そのことからも抽象的な概念としてこの4色が古代から定着していたことがわかる。緑色のことをアヲと言うのは、こういった抽象概念からきていると考える説もある。

しかし言語学者大野晋によると、クロは泥、涅、アヲは藍に由来しているのではないかという反論もある。つまり顔料から由来しているという説である。確かに顔料や染料をそのまま色名として使っていたという記録もある。例えば、

クレナイ、アカネ 植物

タン 丹(硫化水銀からなる鉱物)

ラニ 白土

などである。

ここでわかることとして、日本には古代、黃の概念は存在しなかった。黃が色名として認識されるのは陰陽五行説、仏教が大陸から伝来して以降だといわれている。

古代日本での色は自然信仰や、八百万の神々とのつながりが強く、4原色を基本色彩語とし、他、植物からとった染料を便宜的に使用し、自然そのものの色を表現するために代用していたと考えられる。

現在色を目にするときに顔料のことを考える人はほとんどいないだろう。例えばこの赤は鉱石からか植物からか合成染料からできたのではないか?と考える人はあまりいないはずだ。だが、色を見て、ああこれは朝焼けの赤だとか、これはバラの赤だとか、ワインの赤だとか考える人はいるだろう。自然なことである。

 

私たちは色の成り立ちについてまったく知らない。なぜそのような名前なのか、なぜその色がチューブから出てくるのか。

どちらかといえば知る必要のないことだと思うが、

いまの子どもたちに色のにおいや移り変わりを、より感じてもらうには、色をつくる経験や色が変わることを見る経験は無駄ではないと思う。

太陽は赤、草は緑、ざっくりした抽象概念ではそうかもしれないが、実際個人個人で感じる色は違う。もしかしたら誰も名前をつけていない色かもしれないし、たまたまどこかの国の象徴のように使われている色かもしれない。

色をつくる経験、絵の具をつくる経験が古代人の色に思いを馳せるいい機会かもしれない。これは押しつけではなく、豊かな心、情操教育ってこういうことではないのかと思う。色の匂い、移り変わりを感じられる図工の授業を考えよう。

 

おすすめの本『子供の世界 子供の造形』松岡宏明著

『子供の世界 子供の造形』松岡宏明 著 三元社

この本は子育てに関わるすべての人の家に、置いておいてほしい。そう思えるくらいの本に出会えた。そう思えるのは、かなり読みやすく、丁寧に語られているからというのもあるし、内容が今まさに私が問題視していることと直結したこともある。

私が一番いいなあ、と思った部分は、

例えばフライドポテトのなかから、「この人がいちばんかっこいい」と形を選んでくれる子供のあるがままの姿を、素敵なことだと思えず、大切にできない大人を、大人全体の問題として丁寧に考えているところだ。

いわゆる子供がすばらしい、子供の絵の美に溺れるというような本でないところも好きだ。子供がどのような世界を感じていて、大人と質的に違うということを踏まえた上で、子供の絵が「芸術」ではなく、「芸術的」であるということをしっかりと書かれている。

私の授業を省みて、ハッとさせられる部分もたくさんあった。

読んだすぐ後に書いたメモを2つ、ここに記録しておこうと思う。

早く終わって「できた!」と言ってきた子に、ここもうちょっとこうしたら?と言ってしまっている。子どもの絵は画面いっぱいにたくさん描き込んでいるものが良い、という固定観念に縛られ、そのように作品を仕向けている。教師の思うような作品にしようとしている。この年代の子は、余白や構図など考えるはずもない、と子どもを下に見過ぎている。または、授業時間いっぱいに活動させなければならないという、子どもの作品とは全く関係のない大人の事情を子どもに押し付けている。これは、反省しなければならない。「できた!」と言ってくれた子には、色々話を聞いて、自分が素直にいいと思ったことを具体的に誉めることが必要だと思った。時間が余るのであれば、その子に時間が余るけどどうする?と委ねてもいいかもしれない。これで完成でもいいし、もしまだ描き足したいところがあれば描いてもいいよ。と。その時に、先生がこの作品をあなたにしか描けないものだと尊重し、この子自身によって作られたかけがえのない作品だと思っていることが伝わっていなければならない。

 

写実期に向かうにつれて、写実的に描きたいという欲求が生まれることは自然なことだ。それを否定すべきではないし、その欲求に応えてあげることも必要だ。なぜなら、写実性を学んだ上で、絵の楽しさや美しさ、写実的に描かれた作品のみが芸術でないということが学べる環境はあるからだ。図式期、前写実期、写実期になるにつれ、没個性的になるのは自然なことだ。誰もが写実にあこがれを持つ。ただ、写実にあこがれを持った後、芸術復活期に移行する子どもは少ない。個人的に私は、写実へのあこがれで終わることは、もったいないと感じてしまう。なぜなら、芸術はそれだけで語れないことを、多くの大人は知っているからだ。幼児期の作品をただ下手な絵として、価値がないものとして扱うような人が、増えてしまう社会はあまりにも悲しい。しかし、だからといって、写実的な作品を描かせず、発想や構想を広げ、深めることのみに限定した作品ばかりを授業で取り上げることは、もしかしたら人間本来の欲求をただ単に逃避しているにすぎないのかもしれない。私はこれまで、出来るだけ絵の上手い下手、つまり写実的かそうでないかの違いが出ない授業の課題を考えていた。だが、子どもにとって、発達の段階によっては、写実的に描きたいという欲求をある程度満たしてあげることも美術教育の役目なのかもしれない。
 

三元社ホームページより(稲賀繁美さんによる書評あり)

http://www.sangensha.co.jp/allbooks/index/420.htm

Amazon

https://www.amazon.co.jp/%E5%AD%90%E4%BE%9B%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C-%E5%AD%90%E4%BE%9B%E3%81%AE%E9%80%A0%E5%BD%A2-%E6%9D%BE%E5%B2%A1-%E5%AE%8F%E6%98%8E/dp/4883034208

絵が上手く描けないことを、子どもたちは指導されないといけないのか

うちの小学校ではなぜか毎年、自画像を描かせる。

毎年2月に1年の総まとめとして作品の展覧会があるのだが、そこで全学年、全員の自画像が展示され、展示期間が終わると台紙に貼りつけられ、6年間その台紙に毎年の自画像をためていく。6年生の台紙を見ると、1年生の時描いた自画像から5年生の時描いた自画像まで、5枚の自画像が貼られている。大きさは、すべて9cm×10cm。かなり小さい。これが毎年の恒例行事である。6年生になって卒業するときに、自画像の移り変わりを見ることができるのである。去年までは図工の時間ではなく、担任の先生の指導のもと描かれていたというから放任もいいところである。きっと終わりの会などのホームルームの時間で急いで描かせていたのだろう。

誰がこんな伝統を作り上げたのだろうか。不思議で仕方がない。

2月の作品展だが、もうやってしまおうと思い、9月になってから少しずつ図工の授業でやっている。

「今日は自分の顔を描きます」

「えー」「いややー」

どのクラスでもこの反応である。

 

ためしに隣の先生に、

「展覧会用の自画像あるじゃないですか。」

「ああ、毎年恒例のやつね。」

「今年は先生方も描いて頂いて子どもと一緒に展示するっていうのはどうですか。」

「えー」「絶対いややー」

大人もこの反応である。

 

図工の専門教諭である私も、自分の自画像を展示すると言われたら、いやだ。

(私の場合は、図工の先生というハードルが高すぎるからいやだが、)子どもも大人も大嫌いな自画像を、なぜ描かなければいけないのか。しかも小さな小さな画用紙に。

画材は毎年変えている。1年生はクレパス、2年は色鉛筆、3年はフェルトペン、4年はコンテ、5年は面相筆、6年は鉛筆である。それぞれに特性があり、それぞれ使いこなすのに時間がかかる。

ひっかかるのは5年の面相筆である。去年の5年生の作品を見ると、墨で描かれている。しかも輪郭線のみで描かれている。これで「似せましょう」「よく見て描きましょう」など言われても、子どもはどうすればいいのかわからないと思う。なぜなら、試行錯誤ができないからである。コンテ、鉛筆は試行錯誤のやりようがある。面相筆は一発勝負である。ほっそりした、自信のなさそうな線が、小さな紙にゆらゆらと揺れていた。どう見ても、線の引き方にこだわったり、線の強弱を意識したり、筆ごこちを楽しんだりしている絵ではなかった。ただ、「似せたい、でも無理だ」「絵が下手だけど出来る限りがんばろう」と聞こえてくるような絵だ。今年もこのような絵を描かなければならないと思う子どもには、苦痛でしかない時間だ。むしろ、自画像を描くことを楽しみにしている子どもはこの小学校にどのくらいいるのだろうか?

 

「よく見て描きましょう」というのは、自画像やデッサンの指導で教師がよく言う言葉である。だが、どれだけよく見ても、それを絵にするのは難しい。視覚的情報を、そのまま紙に描くというのは、ある程度の訓練が必要である。大人でも自画像を描くのは難しいのである。よく知られていることだが、東京芸大の卒業制作に自画像の課題がある。数多くの著名な東京芸大出身の作家の絵が現在も大学の資料として残っている。どれも作家の個性が見えるような気がして、とてもおもしろいが、それは4年間の集大成としての自画像である。作家は、自画像に表わされる個性やアイデンティティといった途方もない、答えのない、あるかどうかもわからない無理難題を、4年間悩みに悩んで、ようやくぼんやり見つけて自分を見つめ、表すのだろう。その悩みはおそらく、卒業してからも続くのであろう。いや、個性なんて表していないのかもしれない。とにかく答えのない、暗中模索といった感じだろう。自己の表現なんてものは、そう簡単にできるものではない。

 

小学生はどうだろう。1年生や2年生は何にも言わなくても楽しんで描く子も多いのだろうけど、発達段階によっては、周りの目を気にしたり、こう描かなければいけないんじゃないか、と思ったりしていると思う。

 

予想はしていたが、4年生で自画像の授業をしていると、けんかが起こった。

「先生、○○さんが私の絵を見て笑ってきます」

「はあ~?笑ってへんし」「笑ったし!」「笑ってへんし!」

後で「笑ったの?」と聞くと、「笑った」と言っていた。「何がおもしろかったの?」と聞くと、「似てなかったから」と答えた。「頑張って描いてるのに、そんなこと言われたらどう思うかな」と言うと、わかりやすく「いやや」と答えた。

 

特別な支援が必要な子はこう訴えてきた。

「できないよ先生、私こんなん上手くかけないよう」

もう描き始める前からパニックである。やってみよう、とりあえず手を動かしてみようか、一緒にしようか、と言うしかなかった。

 

4年生はコンテでまずスケッチブックに好きな絵を描き、コンテの特徴をお互いに教え合った。「粉がでてくる」「どこでも描ける」「消しゴムで消せる」「手が汚れる」「色の濃いところと薄いところができる」「色を混ぜられる」「汚れた手を紙にこすると色がつく」など、たくさんの発見があった。ここまではよかった。

コンテの「色を混ぜられる」ということに注目し、「肌の色をつくろう」という目標を立て、鏡を見ながら肌の色をそれぞれ作った。それぞれ試行錯誤を繰り返し、自分の肌の色そっくりの色がたくさんできた。

そこであの小さな画用紙を配り、じゃあその色を描きましょう、そこから自分の顔を描いていきましょうということになったのだが、この辺りから、嫌がる子が増えてきた。「今日の目標は肌の色をつくるということです。それができたら今日はバッチリ。あとは似てるとか似てないとかよりも、色にこだわって顔を描きましょう。似せるのは、正直大人でも難しいからね。」みたいなことを言いながら、授業を進めたのだが、やはり子どもの関心は似ているかどうかである。当然である。目の前に映る自分の顔と、画用紙に描かれた自分の顔が、いくら描いても似てこないのである。子どもたちはどんどん自信を無くしていく。肌の色をいくら褒められても、顔が似ていないと納得いかないのである。

 

ここで教師が顔をうまく描く方法を伝授できたらいいのだろうか?子どもの欲求は上手く描くということに向いていて、上手く描くということが自分を満たしてくれるのだ。しかし上手く描く方法を教えても、結局その方法を理解できない子どもを目立たせるだけのように思える。その子にも丁寧に教えるほうがよいのか?「できないんじゃないよ、先生が言ったとおりにしないからでしょ、話を聞いていないだけでしょ」、と指導している姿が目に浮かぶ。どんな子でもうまく絵が描けますといった指導書を読んだことがある。その通りに指導しても、子どもが発想したりする時間は無くなるだけなのである。なぜ絵が上手く描けないことで、子どもたちは指導されないといけないのか?そんな指導は必要ないと思う。

 

それにしても、画用紙が小さすぎて、楽しんでクレパスをぐるぐるしたり、ごしごししたりするあの大切な時間は取れないのではないだろうか。この小さい画用紙に、彼らの道具や素材と関わり合うダイナミックな楽しみが収まりきるとは思えない。

 

伝統を来年でやめようか迷っている。少なくとも、画用紙の大きさを大きくするつもりだ。

なぜ美術教師は教科書を使わないのか

なぜ美術教師は教科書を使わないのか。

私も含め、多くの図工・美術の教師が図工・美術の教科書を使っていない。

私の恩師である図工・美術の先生は誰も使っていなかった。私が小・中学生の時、図工・美術の教科書は家で眺めるためのものだった。小学校でも、中学校でも、教科書は授業で一切使わなかった。

そして私は今、小学校の図工の先生として、全て読んでいる。だが、使っていない。

 

中学校では使われることがある。それは期末テストの時である。

私が中学校で美術教師だった時も、資料集や教科書をテストの範囲にしていた。

なぜかわからないが、美術のテストが毎学期末ある地域だった。これの必要性もよくわからない。美術の知識を教養として頭に入れ込む作業が果たして鑑賞の能力を育むものなのか、はたまた関心意欲態度をチェックするものなのか、疑問である。

新学習指導要領には20年度施行版とは違い、「知識」という文言が含まれた。しかしその「知識」の解釈として、「対象や事象をとらえる造形的な視点について自分の感覚や行為を通して理解する」こととある。注釈として書かれていることは、読み落としがちで、変な解釈をされている場合が多いので(非常に多い。特にベテランの先生に多い。)そのまま以下に載せておこうと思う。

 

「ここで言う「知識」とは、形や色などの名前を覚えるような知識のみを示すのではない。児童一人一人が、自分の感覚や行為を通して理解したものであり、造形的な視点である「形や色など」、「形や色などの感じ」、「形や色などの造形的な特徴」などが、活用できる「知識」として習得されたり、新たな学習の過程を経験することで更新されたりしていくものである。児童が自分の感覚や行為を大切にした学習活動をすることにより、一人一人の理解が深まり、「知識」の習得となる。これは、図画工作科が担っている重要な学びである。」

 

これを読む限りでは、アーティストのすばらしさを教師が解説したり、色の名前を覚えるためにテストをするようなことは「知識」の重要性として書かれていない。子どもが自ら経験を通じて習得するものであると捉えられる。その環境を整えることが教師の役割なのではないか。ますます美術のテストの必要性が分からなくなってきた。(中学校で美術のテストが無い地域もあるらしい。無くていいと思う。)

 

では教科書は「知識」を習得するためのものなのか?

そうも言えるが、少しニュアンスが違うと思う。教科書は本当によくできている。見ていると、とても面白い。私が子どものころもよく熱心に眺めていた。その時も、今も、読んでいて面白いと思えるのは、社会や理科の資料集を読む時とは少し違ったように思える。図工や美術の教科書には、社会や理科的な事実と、その中にある不思議や、思い、考え、やってみたらどうなるんだろう、と考えさせる発問が書かれている。(社会や理科もそうだが、図工・美術はより抽象的で視覚的比較ができる。)面白いと思えるのはそこではないか。知識だけで終わるのではなく、行為の先にあるものとしての知識が載せてあるように思える。

 

他の教科の先生からしたら、教科書を使わないということは信じられないそうだ。よく聞かれる。カリキュラムってどうやって決めてるんですか?とか、自分の苦手な分野とかやってなかったりしないんですか?とか疑いの目を向けられている。その気持ちはよくわかる。地域の先生方と話をしていて衝撃だったのは、3年生で小刀を使う題材が図工の教科書に書かれているが、ほとんどの学校で小刀を使わせたことがないという事実だ。担任の先生からしたら、教科書に載ってるのにしなくていいの?という疑問が上がってもおかしくない。

 

無理な学校もある。刃物を使う状況ではない学校も多い。そういった学校で、刃物を使った授業をするのには勇気がいる。その他には、例えば私が前いた学校では陶芸用の窯が無かった。というか地域のほとんどの学校に窯が無かった。そのため陶芸の授業をしていないところが多かった。設備がもともと無いから無理、という他の教科からは何とも信じがたい事実である。ただ、図工美術の設備が完全に網羅されている学校など本当にあるのだろうか。美術という幅広い領域の中で、いや、領域なんてあるようでないような教科で、、、

多くの場合、そういった物理的に無理な場合は、同じ分野で違うことをする。例えば陶芸は「工芸」分野に含まれるので、「工芸」の様々な題材から選んでカリキュラムを組み立てる。または、陶芸で使う粘土という素材を使うなどである。いわゆる妥協案である。目標が全然変わってくる。

教科書に載っている陶芸の題材だけでなく、ほかのいろいろなことを試す授業をする先生もたくさんいる。例えば焼成の時にビー玉を入れて器の中で溶かす、などである。

美術という大きな領域の中で、題材を考えるにあたって、ある程度の指標になるのが教科書だが、その指標に沿っていれば、目標を大きく外れなければ、いい授業をすることが可能だと思う。

 

そして、教科書を使わない一番の理由は、図工・美術という教科が、「こうしたらこうなる」、ということを一方的に教えないからこそ、使わないほうが子どもの発想が広がると思っているからである。こんなこともできるよ、という参考として教科書を使うことはあるかもしれないが、こうしたらこうなる、ということを言われてからするよりも、いろいろ試してからするほうが習得しやすいのである。先ほどの「知識」の話と同じである。

さらに言うと、こうしたらこうなる、と言ってしまうと、ほとんどの素直な子どもたちは、そうなるようにしか、しないのである。彫刻刀の丸刀、三角刀、平刀などの使い方は危険なので教えるが、「丸刀を使うとこんな線が彫れますよ~」と最初から言うのと、「どんな線ができるかやってみよう」、と言うのでは子どもの食いつきが全然違う。出来上がる作品も全然違う。そのほうが、丸刀で出来ることをたくさん知ろうとする。

こんな作品を作りましょう、と教科書を見せてしまうと、ほとんどの子どもはそういった作品しか作らない。それは図工・美術の目標とするところではない。

もっと言うと、実は参考作品を私はあまり見せない。参考作品となるものは授業が始まる前に全て作り終えている。授業で子どもがすることは私も必ず前もって作るようにしている。だが、ほとんどの場合それを見せていない。なぜなら、私の作った作品に似た作品がたくさんできるからである。

 

あと、教師側もこうしたらこういう作品ができる、とか、こういう子が育つ、という文言をあてにしていない。いや、あてにしてはいけないと思う。学校によっても、子ども一人一人によっても、全然違うのだから、全国一律で具体的にこれをこうしなさいということは決められないのではないか。扱う教科書によっても大きく題材が違うのである。国が具体的に決めることで、表現の広がらなくなっていく懸念があると思う。

 

図工の授業はスタートを決めてあげる。あとは自分たちで道を作っていく。それがいい授業だ、というようなことはよく言われることだが、その通りだと思う。ゴールが決められている図工の授業は面白くないし、子どもの発想がある程度限定されてくる。

 

私が教科書を使わないのは、そういう理由である。

触覚的平面構成

名月を取ってくれろと泣く子哉

小林一茶

 

触覚は一番幼稚な感覚だと言はれてゐるが、しかし其れだから一番根源的なものと言へる。彫刻は一番根源的な芸術である。

高村光太郎

 

 

名月を取ってくれ、と言ったことはないが、あの雲を食べたい、と言った思い出はある。最初は誰でも触覚的な世界を認識している。いつしか記号的な世界を認識し、視覚的な世界を理解できるようになる。月を取ってくれと言う子どもは月の触覚を感じたがっている。あの雲を食べたい、と言った私も、雲の触覚を舌で想像していたのだろう。

 

いろんなところで、手触りのない情報があふれている。平面を平面として捉えてしまうことも視覚優位のテレビ教育やパソコン教育が背景にあるのではないか。インスタグラムを見て、グーグルストリートビューを見て、コピーされた教科書の作品を見て、何かを感じ取った気になっている。もちろんそこから感じ取ることも学ぶことも多いと思うが、「作品=モノ」という実感がなくなっているように思える。それがいいかどうかは別として、写真や動画ばかり見ている子どもたちの、そこに存在する「モノ」の捉え方が変わっている気がする。なんだか自分でも手触りの無いものを求めているような気もする。いわゆる人気のデザインは、触覚的良さよりも視覚的良さが強調されているようにも思える。スマホケースやTシャツなど、触りごこちにこだわる機会がこんなに近くにあるにも関わらず、触覚的な温かみよりも、視覚的デザインの内容に興味が行く。ミニオンが描いてあるとか、英語が並んでいるとか、無地とか、花柄とか、それはそれでいいのだが。

もちろん月や雲の手触りを想像するように、鑑賞者が視覚的情報から触覚的情報を想像することはできる。しかしその想像は経験から導き出されるものである。雲を触ったらふわふわじゃないのかと思うのは、わたがしなどのふわふわと関連させるからである。実際の雲の触感などはどうでもよい。ふわふわしているのかなー、と考えていることが大事である。考えられるようにするには、初等教育のいたるところで、触覚を刺激するように環境を整えることが必要だと思う。

例えば平面作品の制作において、紙の質感にこだわるなどである。最近「デザインあ」展を東京に見に行った時、一番感動したのは、字が印刷された紙を見た時である。ただ文字が印刷されている紙なのに、むしろ伝えたいことは文字なのに、きっちりでこぼこした画用紙に印刷されていた。これに気付く人は少ないかもしれないが、情報を伝えるときに、視覚的情報だけではなく、印刷して触覚の次元に落とし込むところまでこだわっているところがすばらしいと思った。番組では伝えきれないところを、きっちり「モノ」として伝えている。

結局平面を平面として捉えてしまうことに対する批判になるが、絵の具工場に行った時、一番感じたことは、絵の具の質感である。絵の具工場の人たちが細心の注意を払っていることは、色(視覚的情報)や保管だけでなく、粘度であった。つまり、粘り気である。筆ごこちと言ったほうがいいのかもしれない。筆ごこちの良さが、アーティストに求められる重要な要素なのである。その筆ごこちは、手ごこちに代わることもある。白髪一雄氏にとったら足ごこちである。絵の具はもともと、視覚的情報だけのものではなかったのである。

コンピューター世代、デジタルネイティブと言われる世代には、視覚的教育よりも触覚的教育が必要なのではないか。もちろんみんなが触覚を研ぎ澄まして毎日を過ごしている訳だが、ものづくりの始まりは、新たな触覚との出会いからだったに違いない。

自然そのものと密着する感覚は、触覚である。

平面の平面的な部分、つまり視覚的な部分ではなく、平面の触覚的な部分へのこだわりが必要である。

平面の研修案

地域の研修では平面グループに所属することになり、6月あたりから研修の計画を立てていた。

以前書いたように、私は「平面」「立体」という分け方に違和感を感じており、平面とは何か、平面という領域の可能性とは何かと考えていた。

そして、平面の研修をするなかで、どういった内容が時間をかけてするにふさわしいのか、ということを考えた。この世の中で、平面の領域に含まれる作品には、どんなものがあるのか。果たして平面とは。考えれば考えるほどに、すべてのものが立体に思えてきたが、あえて、「タブロー」で考えることに徹した。タブローも突き詰めれば立体なのだが、定義づけとして、平面として見せる作品や素材のことを「平面」または「タブロー」と指すことにした。

その中で自分が「平面(=タブロー)」について研修をしたいと考えたことを以下に挙げる。

 

①写真の現像

 写真は平面として見せられる現在唯一といってもいいメディアなのではないか。さらに言うと最近の写真はデータとして見ることのほうが多い。パソコンやスマホで見るデータとしての視覚情報は平面として考えられるのではないか。だが、それをあえてデータとして処理するのではなく、感光紙に現像し、定着させるという方法をとることで、平面の質感(これを言っている時点で立体造形的な考え方だが)を感じる研修はおもしろいのではないかと考えた。

 

②モーションタイポグラフィ

 これは平面として紹介してもいいと思う。文字が動く、映像表現の一種で、以下に挙げたような作品例がある。

www.youtube.com

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上二つは完全にパソコン操作のみによって作られたものだが、以下の二つは実際に質感のあるものを操作して、撮影して文字を動かしている。

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以下の展覧会のタイトルムービーは、「デザインあ」のメンバーによるもので、非常に遊び心をくすぐられるし、見ていて楽しい、わくわくする、ということが率直な感想。リンクではそこまで見られないけど、実際はもっとバリエーションがある。

www.2121designsigh

 映像も写真もだが、実際に手に取って質感を感じ取れるものをあえて平面に定着させたり、データとして処理して動くものとしてある一定の窓枠から見せたり、あえて立体を平面にしているというところがミソ。

 

③デザインの解剖

 これは授業でやろうと思っていることで、『デザインの解剖』という展覧会を参考に考えている最中。定義として、デザインの解剖とは、①身近なものを②デザインの視点で③外側から内側に向かって④細かく分析することで⑤ものを通して世界を見る⑥プロジェクトです。だそうだ。子どもにとって、言葉で理解することが難しいだろうと予想するのは②デザインの視点で③外側から内側に向かって、というところだろうか。一緒にチラシや牛乳パックを解剖していくことで、「デザインの視点」が見えてきたら目標達成か。これは立体物のデザインも含まれるので、平面からはかけ離れていく可能性もある。だが、パッケージデザインということに絞ると何とか平面として考えられるのではないかと思い提案した。

www.youtube.com

④絵の具工場見学、絵の具づくり

 平面を作るときの作者の行為、素材とのかかわりに注目すべきだと考える私は、平面作品を作るうえで歴史のある絵の具に着目した。教育学者であり神智学者のシュタイナーによると、色彩とは、物質に定着するが、それ自体は質量をもたない、漂うものだ、ということらしい。となると色彩こそが、平面を考えるにふさわしい題材なのではないかと考えた。なぜなら色彩こそが、2次的空間で漂い、網膜が色彩を捉える機能によって奥行きはあるかもしれないが、質量がないものであり、色彩について考えることは、色彩が定着させられた平面ではなく、平面そのものを考えることができる題材なのではないかと考えたからだ。そして、色彩を用いる時に使うもの、それが絵の具であることから、絵の具について学ぶことは平面について学ぶことになるのではないか、と考えた。

 

若干無理やりではあるが、このようにして、平面として考えられることを何個か考えた。(実際はもう8個くらいあるが、よくよく考えたら平面というには程遠かったので書かなかった。)

グループで提案したところ、(私以外の人の提案としては、美術館で作品を鑑賞する、というような意見があり、それは「鑑賞」だろ、と思ったし(言ってないがほかの人が言って却下された)、折り紙を切り平面構成をするという案があり、それはおもしろいと思ったし平面だと思ったが、授業化するにあたって子どもが難しいだろうという話になり却下され、そこで私が四つ意見を言うのも憚られたため、一番食いつきがよさそうな④のみを提案したのだが、)紆余曲折あり、④絵の具工場見学、絵の具づくりをすることになった。実際にどんな様子だったのか、あと、平面という領域についての私自身の考え方の変化も含め、この続きはまた後日書こうと思う。