えのぐ日記

小学校で図画工作専科の教諭をしています。

絵が上手く描けないことを、子どもたちは指導されないといけないのか

うちの小学校ではなぜか毎年、自画像を描かせる。

毎年2月に1年の総まとめとして作品の展覧会があるのだが、そこで全学年、全員の自画像が展示され、展示期間が終わると台紙に貼りつけられ、6年間その台紙に毎年の自画像をためていく。6年生の台紙を見ると、1年生の時描いた自画像から5年生の時描いた自画像まで、5枚の自画像が貼られている。大きさは、すべて9cm×10cm。かなり小さい。これが毎年の恒例行事である。6年生になって卒業するときに、自画像の移り変わりを見ることができるのである。去年までは図工の時間ではなく、担任の先生の指導のもと描かれていたというから放任もいいところである。きっと終わりの会などのホームルームの時間で急いで描かせていたのだろう。

誰がこんな伝統を作り上げたのだろうか。不思議で仕方がない。

2月の作品展だが、もうやってしまおうと思い、9月になってから少しずつ図工の授業でやっている。

「今日は自分の顔を描きます」

「えー」「いややー」

どのクラスでもこの反応である。

 

ためしに隣の先生に、

「展覧会用の自画像あるじゃないですか。」

「ああ、毎年恒例のやつね。」

「今年は先生方も描いて頂いて子どもと一緒に展示するっていうのはどうですか。」

「えー」「絶対いややー」

大人もこの反応である。

 

図工の専門教諭である私も、自分の自画像を展示すると言われたら、いやだ。

(私の場合は、図工の先生というハードルが高すぎるからいやだが、)子どもも大人も大嫌いな自画像を、なぜ描かなければいけないのか。しかも小さな小さな画用紙に。

画材は毎年変えている。1年生はクレパス、2年は色鉛筆、3年はフェルトペン、4年はコンテ、5年は面相筆、6年は鉛筆である。それぞれに特性があり、それぞれ使いこなすのに時間がかかる。

ひっかかるのは5年の面相筆である。去年の5年生の作品を見ると、墨で描かれている。しかも輪郭線のみで描かれている。これで「似せましょう」「よく見て描きましょう」など言われても、子どもはどうすればいいのかわからないと思う。なぜなら、試行錯誤ができないからである。コンテ、鉛筆は試行錯誤のやりようがある。面相筆は一発勝負である。ほっそりした、自信のなさそうな線が、小さな紙にゆらゆらと揺れていた。どう見ても、線の引き方にこだわったり、線の強弱を意識したり、筆ごこちを楽しんだりしている絵ではなかった。ただ、「似せたい、でも無理だ」「絵が下手だけど出来る限りがんばろう」と聞こえてくるような絵だ。今年もこのような絵を描かなければならないと思う子どもには、苦痛でしかない時間だ。むしろ、自画像を描くことを楽しみにしている子どもはこの小学校にどのくらいいるのだろうか?

 

「よく見て描きましょう」というのは、自画像やデッサンの指導で教師がよく言う言葉である。だが、どれだけよく見ても、それを絵にするのは難しい。視覚的情報を、そのまま紙に描くというのは、ある程度の訓練が必要である。大人でも自画像を描くのは難しいのである。よく知られていることだが、東京芸大の卒業制作に自画像の課題がある。数多くの著名な東京芸大出身の作家の絵が現在も大学の資料として残っている。どれも作家の個性が見えるような気がして、とてもおもしろいが、それは4年間の集大成としての自画像である。作家は、自画像に表わされる個性やアイデンティティといった途方もない、答えのない、あるかどうかもわからない無理難題を、4年間悩みに悩んで、ようやくぼんやり見つけて自分を見つめ、表すのだろう。その悩みはおそらく、卒業してからも続くのであろう。いや、個性なんて表していないのかもしれない。とにかく答えのない、暗中模索といった感じだろう。自己の表現なんてものは、そう簡単にできるものではない。

 

小学生はどうだろう。1年生や2年生は何にも言わなくても楽しんで描く子も多いのだろうけど、発達段階によっては、周りの目を気にしたり、こう描かなければいけないんじゃないか、と思ったりしていると思う。

 

予想はしていたが、4年生で自画像の授業をしていると、けんかが起こった。

「先生、○○さんが私の絵を見て笑ってきます」

「はあ~?笑ってへんし」「笑ったし!」「笑ってへんし!」

後で「笑ったの?」と聞くと、「笑った」と言っていた。「何がおもしろかったの?」と聞くと、「似てなかったから」と答えた。「頑張って描いてるのに、そんなこと言われたらどう思うかな」と言うと、わかりやすく「いやや」と答えた。

 

特別な支援が必要な子はこう訴えてきた。

「できないよ先生、私こんなん上手くかけないよう」

もう描き始める前からパニックである。やってみよう、とりあえず手を動かしてみようか、一緒にしようか、と言うしかなかった。

 

4年生はコンテでまずスケッチブックに好きな絵を描き、コンテの特徴をお互いに教え合った。「粉がでてくる」「どこでも描ける」「消しゴムで消せる」「手が汚れる」「色の濃いところと薄いところができる」「色を混ぜられる」「汚れた手を紙にこすると色がつく」など、たくさんの発見があった。ここまではよかった。

コンテの「色を混ぜられる」ということに注目し、「肌の色をつくろう」という目標を立て、鏡を見ながら肌の色をそれぞれ作った。それぞれ試行錯誤を繰り返し、自分の肌の色そっくりの色がたくさんできた。

そこであの小さな画用紙を配り、じゃあその色を描きましょう、そこから自分の顔を描いていきましょうということになったのだが、この辺りから、嫌がる子が増えてきた。「今日の目標は肌の色をつくるということです。それができたら今日はバッチリ。あとは似てるとか似てないとかよりも、色にこだわって顔を描きましょう。似せるのは、正直大人でも難しいからね。」みたいなことを言いながら、授業を進めたのだが、やはり子どもの関心は似ているかどうかである。当然である。目の前に映る自分の顔と、画用紙に描かれた自分の顔が、いくら描いても似てこないのである。子どもたちはどんどん自信を無くしていく。肌の色をいくら褒められても、顔が似ていないと納得いかないのである。

 

ここで教師が顔をうまく描く方法を伝授できたらいいのだろうか?子どもの欲求は上手く描くということに向いていて、上手く描くということが自分を満たしてくれるのだ。しかし上手く描く方法を教えても、結局その方法を理解できない子どもを目立たせるだけのように思える。その子にも丁寧に教えるほうがよいのか?「できないんじゃないよ、先生が言ったとおりにしないからでしょ、話を聞いていないだけでしょ」、と指導している姿が目に浮かぶ。どんな子でもうまく絵が描けますといった指導書を読んだことがある。その通りに指導しても、子どもが発想したりする時間は無くなるだけなのである。なぜ絵が上手く描けないことで、子どもたちは指導されないといけないのか?そんな指導は必要ないと思う。

 

それにしても、画用紙が小さすぎて、楽しんでクレパスをぐるぐるしたり、ごしごししたりするあの大切な時間は取れないのではないだろうか。この小さい画用紙に、彼らの道具や素材と関わり合うダイナミックな楽しみが収まりきるとは思えない。

 

伝統を来年でやめようか迷っている。少なくとも、画用紙の大きさを大きくするつもりだ。