えのぐ日記

小学校で図画工作専科の教諭をしています。

触覚的平面構成

名月を取ってくれろと泣く子哉

小林一茶

 

触覚は一番幼稚な感覚だと言はれてゐるが、しかし其れだから一番根源的なものと言へる。彫刻は一番根源的な芸術である。

高村光太郎

 

 

名月を取ってくれ、と言ったことはないが、あの雲を食べたい、と言った思い出はある。最初は誰でも触覚的な世界を認識している。いつしか記号的な世界を認識し、視覚的な世界を理解できるようになる。月を取ってくれと言う子どもは月の触覚を感じたがっている。あの雲を食べたい、と言った私も、雲の触覚を舌で想像していたのだろう。

 

いろんなところで、手触りのない情報があふれている。平面を平面として捉えてしまうことも視覚優位のテレビ教育やパソコン教育が背景にあるのではないか。インスタグラムを見て、グーグルストリートビューを見て、コピーされた教科書の作品を見て、何かを感じ取った気になっている。もちろんそこから感じ取ることも学ぶことも多いと思うが、「作品=モノ」という実感がなくなっているように思える。それがいいかどうかは別として、写真や動画ばかり見ている子どもたちの、そこに存在する「モノ」の捉え方が変わっている気がする。なんだか自分でも手触りの無いものを求めているような気もする。いわゆる人気のデザインは、触覚的良さよりも視覚的良さが強調されているようにも思える。スマホケースやTシャツなど、触りごこちにこだわる機会がこんなに近くにあるにも関わらず、触覚的な温かみよりも、視覚的デザインの内容に興味が行く。ミニオンが描いてあるとか、英語が並んでいるとか、無地とか、花柄とか、それはそれでいいのだが。

もちろん月や雲の手触りを想像するように、鑑賞者が視覚的情報から触覚的情報を想像することはできる。しかしその想像は経験から導き出されるものである。雲を触ったらふわふわじゃないのかと思うのは、わたがしなどのふわふわと関連させるからである。実際の雲の触感などはどうでもよい。ふわふわしているのかなー、と考えていることが大事である。考えられるようにするには、初等教育のいたるところで、触覚を刺激するように環境を整えることが必要だと思う。

例えば平面作品の制作において、紙の質感にこだわるなどである。最近「デザインあ」展を東京に見に行った時、一番感動したのは、字が印刷された紙を見た時である。ただ文字が印刷されている紙なのに、むしろ伝えたいことは文字なのに、きっちりでこぼこした画用紙に印刷されていた。これに気付く人は少ないかもしれないが、情報を伝えるときに、視覚的情報だけではなく、印刷して触覚の次元に落とし込むところまでこだわっているところがすばらしいと思った。番組では伝えきれないところを、きっちり「モノ」として伝えている。

結局平面を平面として捉えてしまうことに対する批判になるが、絵の具工場に行った時、一番感じたことは、絵の具の質感である。絵の具工場の人たちが細心の注意を払っていることは、色(視覚的情報)や保管だけでなく、粘度であった。つまり、粘り気である。筆ごこちと言ったほうがいいのかもしれない。筆ごこちの良さが、アーティストに求められる重要な要素なのである。その筆ごこちは、手ごこちに代わることもある。白髪一雄氏にとったら足ごこちである。絵の具はもともと、視覚的情報だけのものではなかったのである。

コンピューター世代、デジタルネイティブと言われる世代には、視覚的教育よりも触覚的教育が必要なのではないか。もちろんみんなが触覚を研ぎ澄まして毎日を過ごしている訳だが、ものづくりの始まりは、新たな触覚との出会いからだったに違いない。

自然そのものと密着する感覚は、触覚である。

平面の平面的な部分、つまり視覚的な部分ではなく、平面の触覚的な部分へのこだわりが必要である。