えのぐ日記

小学校で図画工作専科の教諭をしています。

自由は単調ですぐ飽きる

ある研修で、封筒に絵を描くというワークショップに参加した。

いわゆる「絵封筒」というもので、封筒に貼りつける切手から連想して絵をつなげたり、切手を絵の一部のようにしたりする。

中学生向けの授業展開を実際にデザイナーを学校に呼んで行った実践報告から、珍しい切手の種類の紹介など内容の濃いワークショップだった。

 

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goodpatch.com

上図は一例。参考までに。

 

絵封筒自体はとても面白い題材である。

そこに集まった大人たちは夢中になって絵封筒を作っていた。

 

しかし授業展開を考えるとなると、自由度が高いと思った。

きっかけは考えやすい。切手の絵を参考にイメージが広がりやすい。

ただ、自由度の高い授業は、結局、子どもたちがイメージを形にする力、画力がものを言う。

画力に自信がある程度ある子どもは、楽しんで描くだろうが、画力に自信のない子どもは結局手が止まる、もしくは恥ずかしがって見せたがらない。

思ったように絵が描けない、自分のイメージした通りのものにならないということは、小学校低学年ぐらいから、実はもうかなりのトラウマになっている人も多いのではないだろうか。

この問題は、自分が美術教師になる前からどうすればいいか悩まされていることである。画力をつけるように指導すべきか。それとも画力など関係のない授業をするべきか。ある程度の画力をつけさせてから、発想や構想をする力を見るのか。

年配のベテラン美術教師は画力をつけることにかなりの自信を持っておられる。それが美術教師の資質だといわんばかりに、美しいデッサン、リアリスティックな作品が作品展に並び、どこそこのポスターコンクールで入選させた、ということをかなりのステータスにしておられるようだ。

確かに画力をつけさせることはすばらしい。自分が絵が描けるということは今後の自信にもなるだろう。誰でも上手に絵が描けるようになる。そんな方法があるなら教えてほしいという子ども、いや大人も、多いのではないだろうか。先生のおかげで絵が上手になりました、という言葉を生きがいにすることも悪くない。

自分がイメージしたものを描くというのは思ったよりも難しく、ある程度のトレーニングを積んだ人でないとできない。すべての人がすぐにできるようになるわけではなく、一人ひとり上達の時間が違う。授業で上達の段階に応じて評価することになると、時間をかけて上達する子は低く評価されてしまう。普段から絵が好きで小さいころからよく絵を描く経験をしている子はもちろん高く評価される。スポーツや楽器と同じである。練習を積み重ねた量だけうまくなる。教えてもらった人によって成長の幅も変わる。

 

自分で妖怪を考えて妖怪を墨と筆で描くという授業を中学1年生向けにしたことがある。教師になって1年目である。

 

みんなすばらしい発想力で、現代風の、中学生が生きている世界の中で息づいた妖怪たちがたくさんできあがった。案の段階では、言葉や絵で表し、周りのクラスメイトと自分が考えた妖怪について楽しそうに話していた。

だがいざ墨と筆で妖怪の姿形を描くとなると、納得いくまで時間がかかった。何枚でも紙は使ってもよいことにしていたが、何枚描いても納得いかない。むしろ、何枚も書く前にあきらめる子が出てきた。

そうやって試行錯誤しながら描くということが大事なのだろう。そうやって自分のイメージに近づけながら努力することが大事なのだろう。

しかしそれが人に向けて送るものだったら?それが大々的にいろんな人が見る作品だったら?

イメージ通り描けずに終わってしまった子はゾッとするだろう。

絵を描くということは難しい。というよりも、イメージをそのまま形にすることは難しい。イメージを形にするためには、練習が必要である。イメージを形にすぐできる子は、絵が好きな子である。さらに、なぜか、流れている雰囲気としては、写実的なものが上手いとされている。

仮にイメージ通りいかなくても、その努力は子どもにとって大切なものになるだろう。しかし、その努力をさせることが果たして美術教育の役目なのか、と考えさせられる。

人によって大きく差が出る表現を授業ですることに、ずっと違和感がある。

教師が、まったく新しい経験ではない、それぞれ経験したことのある、だがそれぞれ経験値がちがう題材を、同じ座標軸の中で測るというのは、果たして教育上問題ないのか。

私の尊敬する体育教師は、必ず柔軟をさせる。柔軟は、やればやるほどできるようになる。元からバレエなどをしていて開脚が一直線にできる子も、中学校三年間でサボればできなくなる。今まで固くて一切開脚できなかった子も、毎日風呂上りにストレッチを必ずすれば、中三になるときれいに開脚できるようになるのだという。

新学習指導要領には「学びに向かう人間性」という言葉が入った。サボらず毎日、将来の自分を見越して学びに向かうということが人間性なのであれば、この体育教師は目標・評価に見合った適切な題材を与えている。その人間性を図る我々教師は、「上達する」ということを念頭に置くのであれ、そうでないのであれ、経験値で測ることのできない公平な題材を与えるべきではないのか。

画力をつけるということは道具の使い方の習得に似ているかもしれないが、経験値の面でちがう。道具の使い方はほとんどの場合、経験値ゼロから始められる。ほとんどの場合、電動のこぎりなど家にない。その使い方をマスターしてから、自分なりの表現に向かう。画力は違う。教師はある程度のセンスを見ないといけない気がしている。(これも大問題である)そして、教師は経験値を図りようがない。好きに描いている絵はそれでいいが、手が止まっている子に絵の描き方を教えるのか。それもなんだか違う気がする。

よく言うのは、絵をうまくするために美術教育があるのではない、ということである。

美術家を育成することが美術教育の目的ではないということである。

美術教育の目的は、美術による人間形成、美術を通した教育である。

美術を通した教育をする上で、絵画という領域の授業を考える上での難しさ、いや、絵画というよりも自由なイメージを形にする授業の難しさを考えさせられた。